素顔の映像が現実を突きつけます 映画“311”

“メディアの作り手から離れた視点でとらえた映像は現実味があり、メディアのあり方を問いかけているように感じる”

2011年3月25日、1台のワンボックスカーが自衛隊の災害支援車の車列を横目に東北道を北上しています。そして、車載された放射線量計の数値は徐々に上がっていきます。

その車には、作家で 映画監督の森達也、映像ジャーナリストの錦井健陽、映画監督の松林要樹、映像プロデューサーの安岡卓治の4人がそれぞれにカメラを片手に福島第一原発の周辺地域、そしてその先の岩手や宮城へ向かいます。

彼らの目的は「震災をその目で確認する」ただそれだけでした。

彼らが記録した映像はメディアや映画で使おうというつもりはなかったのですが、映像プロデューサーの安岡氏がそれぞれの素材を編集して出来上がったのがこの映画です。

 

僕のとらえ方は福島第一原発周辺や宮城や岩手の被災状況や被災した人々を取材したドキュメンタリーとは違うように思います。言うなれば彼ら4人が被災地の状況を目の当たりにする様子を記録したドキュメンタリーだと思っています。

最初から「◯◯をテーマに取材する」などというつもりでなかったということから、メディアで流されることを前提とした取材ではなく、メディアの作り手や送り手という立場を離れて一人の人間の視点から記録された映像はとても臨場感があり、ある程度恣意的に作られたテレビで流れる映像よりも現実味のある感じがしました。

テレビでも連日被災地の状況が報じられていましたが、もちろんそこに映しだされている映像は現実のものだとは思います。でもそこにテレビ局などの恣意的な部分を感じたとたんに、まるで別世界の出来事のように思ってしまいました。

また、テレビなどで流れるドキュメンタリーなどではます扱われることがないと思うような場面も結構登場します。例えば、放射能被害を避けるため避難し無人になった集落の集会場を取材して車に戻るときに、被曝を警戒して着ていた雨合羽を脱いでその場に捨てるとか、本人たちも宿の部屋でビールを飲んだり、メディア関係者達が旅館で酒盛りしているような場面は普通使わないですよね。

映画の前半は福島第一原発から半径数十キロ圏内を訪れるシーンで構成され、放射線量計の数値がどんどん上がっていくにつれ、彼らのテンションがどんどん上がっていきます。上映後のトークでも森監督は「恐怖の反動でやたらにテンションが上がってしまった」と語っていました。おそらくこんな場面がテレビなどで流れたら“不謹慎だ”とクレームが殺到するでしょう。

結局計画性もなく、被曝を避けるための装備も充分でない彼らは、これ以上福島第一原発に近づくことは無理だと判断し、津波の被害を受けた宮城県や岩手県へ向かうことになります。

後半は宮城や岩手の津波の被災地での様子になります。そこでは前半のようなテンションの高さは感じられず、むしろ被災現場を目の当たりにして、何を撮っていいのかわからない、現地で被災した人になんて声をかけていいのかわからない茫然自失という感じがします。

石巻市立大川小学校は津波から避難をしようと点呼をとっているときに児童も先生も津波で流されたことは多くの方がご存知だと思います。この小学校に通っていた子供さんを亡くされたお母さんは、お母さん友達と毎日遺体の捜索に出ています。

その母さんは「悲しいことは悲しいが、もうそれを通り越してとにかく子どもの亡骸を連れて帰りたいということだけだ。テレビ等が取材に来てもは自分たちが悲しんでいるということだけしかとりあげてくれない。遺体の操作には重機が必要で、それを言って欲しいと言っても軽くあしらわれる、もうどこに憤りをぶつけていいのかわからない」と語ります。

このお母さんたちの言葉は、本当にメディアは現地の人々の声を届けているのか?自分たちがこうすればウケがいいだろう意図にあったものだけしか取り上げていないのだろうか?など考えてしまいます。

そのお母さんたちに森監督は「何かあったら僕にぶつけてください。それが僕の役目ですから」と声をかけます。森監督のこの言葉は先に上げたようなメディアの姿勢は問題があるのではないかと言っているようにも思います。

ラストでは遺体が見つかった現場での遺族の様子をとらえています。自分たちは遺体を撮るつもりは全くなくても、ネットやテレビで遺体の写った映像が流され、それに対して憤りを感じている遺族も多いと思います。そっとしておいて欲しいという遺族の気持ちを知っていながらも、そこにカメラを向けることそのものが森監督のいう“メディアの加害性”や“後ろめたさ”なのだと思います。

家もあり普通に暮らしていられる自分たちが被災した人々を撮るということはどことなく後ろめたさを感じてしまいます。

上映の後、森達也監督と新潟日報社文化部長兼編集委員兼論説委員の森沢真理さんとのトークが行われました。

トークでは森監督の新潟時代での思い出、この映画から感じている“メディアの加害性”や“うしろめたさ”、311後の日本における集団心理、各地の映画祭での裏話などを語られていました。

森監督は幼稚園、中学高校と新潟で過ごし、高校の時に友だちから自主製作映画を一緒に作らないかと声をかけられて参加したことが、映画の世界に入ったきっかけとのことです。

森沢さんは、この映画を観て「自分も報道に身を置いているが、まるで自分の裸の背中にスポットライトを当てられているような感じがした」と話されていました。森沢さんも森監督の言う後ろめたさやメディアの加害性というものを日頃感じているのだなと思います。

森監督は映画やテレビ番組を作るつもりがなくても、被災した人々にカメラを向ける時点でそこにはメディアの加害性が生じるし、自分たちは平穏無事に暮らしているのに苦しんでいる人を取材するということには後ろめたさを感じているとも語っています。

また311後の日本の社会は心理的に「集団化」が進んでいるように感じている。なにか大きな事件や災害が起きると人々は集団になろうとする心理が働くとのことです。そして、集団と敵対するものを見つけそれを排除し、さらには集団内で異質なものを排除するようになるという傾向があり、自身も映画にしたオウム真理教の事件やアメリカの911などでもそうしたことがあったと感じている。また、そうした集団心理の暴走は時として恐ろしく、その中の人々はなぜそうなっているのか分からなくなってしまう語ってられました。

 

2012年08月11日 新潟・市民映画館シネ・ウインドにて鑑賞(08月24日まで上映)
おすすめ度:★★★☆☆
もしかしたらこの映画をどう受け止めていいのか戸惑う人もいると思いますが、それも一つの受け止め方だと思います。

 

共同監督:森達也、錦井健陽、松林要樹、安岡卓治
2011年 日本作品

 

【リンク】
“311”公式サイト
311@ぴあ映画生活

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「素顔の映像が現実を突きつけます 映画“311”」への3件のフィードバック

  1. 実際、マスメディアの報道というのはある方向性を持たせて、視聴者の心理をある方向へと向かわせることが可能です。
    つまり恣意的な編集によって世論を形成させるのです。
    この映画はそれとは反対の、ただ撮影した真実をそのまま流すという作品なのですね。

    >また311後の日本の社会は心理的に「集団化」が進んでいるように感じている。

    私は特にこの言葉に共感しましたね。
    集団化しても、災害の全てに有効な対策が打てる訳でもありません。
    そして、911で集団化してもアメリカと異なる価値観を持つイスラム諸国の理解が得られる訳でもありません。

    むしろこういうときこそ、色々な意見に耳を傾けるべきではないかと私は思うんですよね。

    1. >星鈴さん

      コメントありがとうございます。

      某有名掲示板のダイジェストを時々見ていますが、報道側が人がこう言っていますという思惑にあったことを言っている人だけを報道するとか、××が伝わるようなものだけを取材をするなど、恣意的な報道が過度になることが叩かれることが多くなっているように感じます。

      本文の繰り返しになりますが、何か人に見てもらえるものを作ろうという作り手の意識を切り離した視点でとらえられた映像だけに、現実感の強いものでした。

      911では集団化したアメリカは、アルカイダの拠点のイラクを敵に仕立てあげてしまい、戦争が泥沼化したのでしょうね
      311以降の日本では、絆という言葉のように心のつながりを大事にしようとか、頑張ろうとかあちこちで言われるようになりました。いいことだと思いますがどことなく違和感を感じています。

      多分その違和感というのは、星鈴さんがおっしゃるように、いろいろな声が取り上げられてなく、そのため集団心理の暴走に歯止めがかかりにくくなっているからなのかもしれませんね。

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